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■12月9日・10日 Nosfell&Guest『クロコチャジア空のライヴ』 

  • 2010/12/10(金) 16:00:35

クロコチャジアのふしぎなパフォーマー。
Nosfellさん、フランスより来日。
その日本公演が、二日間。
ところは、神楽坂近くの日仏学院内レストラン
『ラ・ブラッスリー』。

まず「クロコチャジア」って?
という話からになるのではないか、
と思うのですが、これは、ノスフェルさんのなかで生まれた国の名前。
その国では「クロコベッツ」という言語がつかわれ、
ノスフェルさんは、そのコトバを操る語り部の役割を担い、
クロコチャジアの伝承、説話、歴史を、暗部に至るまで、
白日のもとに曝さしめるよに、歌い奏でる。

物語るとき、ノスフェルさんは幾つもの声を駆使する。
イノセントな甲高い声、少し趣を異にする、女性的なファルセット。
朗々としたテノール、
妙齢の青年の凛とした唄声。
普通のトーンで話すときは、ちょっとはにかむような響きがある。
そのどれもが特徴的で、表情豊かで、
まだ見ぬ国、否、決して辿り着けないかもしれない
「クロコチャジア」の姿を垣間見させる。

その国の総てを知っているのは、ノスフェルさんひとり。
だから、そのコトバを聴いているわたしたちには、
たぶん、それぞれに違う「クロコチャジア」が見えていたのだと思う。
そこに、少しだけ近づかせてくれたのが、
ノスフェルさんが日本語で話し聞かせてくれた
“ジャリ・マダズ”(と聞こえていました)という、在る地方の領主の物語。

不遇な運命を辿り、いよいよその命が尽きようか、というところで
狐の取引によって九死に一生を得た。
けれど、彼のコトバは永年の孤独によって不自由となり、
彼を救った狐との会話が、うまくかみ合わない。
たいへんな労を要しながらも、
それでも彼らは、コミュニケーションを試みようとしたのです。

中盤で披露された、こんな感じのエピソードは、
この日のオープニングゲストであったあのひとを想起させるに十分でした。

両日とも、日比谷カタンさんのソロステージに
ノスフェルさんが呼びこまれ、
セッションのあとに“ヘテロのワルツ”をデュエット。
そこから、ノスフェルさんのステージが始まる、という構成でした。

特殊なかたちではありましたが、そこはやっぱりカタンさんのステージでもある。
ということで、
クロコベッツを日本語に通訳する、という離れ業を披露するカタンさん。
「クロコチャジアは巣鴨にあったけど、いまは、お花茶屋に移動した」
とか
「自民と民主の大連立は許さない」
と、好き放題言われてましたが、ノスフェルさんにこにこだったところを見ると、
ほんとに言ってたのかもしれない
(翌日「お花茶屋は姉妹都市でした」と訂正されていました。
行ってみたくなるじゃないか、ならないかい、お花茶屋…)。

“ヘテロのワルツ”が、他のだれかと演奏されることによる異化効果、
というのはかつて、イーヨさんとのジョイントでも経験したのだけれど、
それに近い感触を覚えながら、
もっと遠くてさびしくて、
繰り返される「だからこそ」の、
じんわりとした熱が際立つ。

そこから始まるノスフェルさんのステージは
ほんとに、臨機応変、千変万化。
前述の幾つもの声色、
サンプリング・ループを駆使した、エレクトロニカ的要素。
巧みなヒューマン・ビートボックスには眼を瞠るし、
ピエール・ルブルジョワさん(チェロ)
オラン・ムラトさん(ドラムス)と構築する、確かなバンドサウンド。
そして、時折ステージの上と下で繰り広げられるノスフェルさんのダンス・ステップ。
エンターテインメントとして“音楽”をしっかり愉しめる。
レッチリのオープニングアクト、というのは
生を拝見して、初めて納得。

そして、そのバンド構成にナスノミツルさん(Bass)が加わる。
ナスノさんの「どうしてベースがこんなこと(音)に!!」的な
エフェクティヴで職人気質の音が、エレクトロニカ要素に拍車をかける。
反比例するように、バンドとしてエモーショナルな動きが強まる。
ピエールさんのエモーショナルなコーラス。
そして、ツインベースならではのユニゾンも混じったり、
ほんとに、単純に「おもしろい!」と喝采したくなる、
クロコチャジアの物語。

そして、そこに日比谷カタンさん(Guitar)再登場。
冴え冴えとした青い照明に浮かび上がる5人。
沖縄音階のような、常夏を思わせる音。
少しだけ、きゅっと絞るよな切なさと、拡げて伸ばす解放感と。
たゆたうような照明のなかで、からだの輪郭が解けそうになる感覚と、
同時に、強く脈打つ血の流れ、を感じていた。
生きもの、として機能する身体器官に、
物語を与えるのは、誰のちからなのか。
それを奥深くまで、潜って、探ってゆきたくなる。
ノスフェルさんのステージには、『脈々』という振動を、感じ続けていました。
そして
演奏が終わった後の、5人の安らいだ笑顔は、いまでも脳裏に焼き付いています。


アンコールは、ノスフェルさんひとりの弾き語りによるステージで
ひとまずのピリオドが打たれる。
ノスフェルさんにとっても旅であったろう、この度の来日公演は、
わたしたちにとっても、旅のような時間をもたらしてくれた。
たった2時間で、地図にもない場所をめぐる。絶景を知る。
その導き手が、ノスフェルさんというひとなのです。

Youtubeに動画かなりあがっているようなので、
ちょっと触れてみるのも、一興ですよ。


でもって、ちょっとだけ蛇足。

「クロコチャジア」を想うとき、わたしは
落下の王国』を思い出してしまっていた。

ターセム・シンという、アメリカに渡ったインド人の監督が2006年に撮った映画。

大怪我をして自暴自棄になっていた、スタントマンの青年が、
自殺するための薬を薬庫から盗み出させるため、
木登りの最中に落っこちて同じ病院に入院している、小さな女の子に
毎晩、自分で作ったお話を聞かせてやる。
青年は、現実のやるせなさや憤りを投影した復讐譚を語っていたつもりが、
お話に昂奮して、感情移入して、ついにその中に参入してしまった
女の子によって振り回され、思わぬ展開に動かされてしまう…という
メタ構造のストーリー。

青年が作った架空の王国の景色、そして、冒険者たちの風貌、
映像がとにかく鮮やかで、
それだけに残酷が際立って、アレクサンドリア(女の子)でなくとも、
ハッピーエンドを望まずにいられないよな、痛ましさが漂う
美しい映画でした。

逆転した世界を生きてゆくには、
それを凌駕するほどの想像力が必要。
だけど、それだけでもだめ。
想像を、創造により近いところへ運ぶためには。

映画のなかでぼかされた答えを、
この場で、垣間見たような気がしていたのでした。

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